さきごろ、長年の懸案である水俣病問題が「解決」に向けて動き出した。裁判所の和
解勧告に対して、今までその責任はないとして原告の被害者・患者団体、さらには大方
の世論とも対立してきた国が、解決案を提示した。これに対し、水俣病被害者・弁護団
全国連絡会議の代表は10月31日に環境庁を訪ね、政府・与党が示した最終解決案の
受け入れを伝えた。
1956年5月、チッソ付属病院長から水俣保健所へ「原因不明の中枢神経疾患が発
生」と報告された公式発見から数えても、すでに40年になろうとしている。その間に
多数の人命が失われ、幾多の人々が体の自由を奪われただけでなく、耐えがたい偏見と
差別の渦の中に生きてこなければならなかった。その社会的仕打ちのゆえに、故郷水俣
を去らねばならなかった人々もまた少なくない。水俣病が公害病・公害事件を超えて、
社会問題・人権問題としての側面を見せてきた所以でもある。
水俣病に学生時代からかかわりをもつ熊本大学の原田正純氏は、「水俣病の小なる原
因は有機水銀であり、中なる原因はチッソが廃液をたれ流したことであり、大なる原因
は人を人としてあつかわなかったことにある」と看破した。(『水俣が映す世界』日本
評論社、1989年)
人を人としてあつかわない精神は、八代海(不知火海)の豊かな漁場を前にしてのび
やかに暮らしてきた漁村・水俣に近代化学工場であるチッソが乗り込み、たちまちにし
て「会社行きどん」という水俣支配層が生み出されていった経過のなかに、すでに兆し
ていた。そしてそのつけは、漁民にとどまらず、彼らが生きた海そのものにも及び、さ
らには対岸の天草地方をも襲ったのである。振り返ってみれば、足尾鉱毒事件をはじめ
日本に生起した公害事件のことごとくに、その精神は底流し、高度成長に象徴される工
業化社会を底から支えていたと言ってもよい。したがって、今回の解決へ向けた動きは、
何よりも人間として尊重する方向で考えられねばならないはずである。
水俣に暮らし、水俣病と向き合い続ける作家の石牟礼道子氏が、「薩摩流れ」とか「
天草流れ」などと呼ぶ周辺各地方出身者の寄合い所帯のようにして水俣の町ができ始め
た頃の情景を、次のように書いている。(『葛のしとね』朝日新聞社、1994年)
チッソ工場の沖合いは豊かな漁場で、竹籠いっぱいの魚を天秤(てんびん)棒をしな
らせ魚市場へ急いで運ぶ小母さんたちの担い音と地面をする草履(ぞうり)の音、さら
には馬の蹄(ひづめ)の音、馬車のわだちの音、馬車に積んだ木枝が地面をこする音な
ど、一日の営みの開始を告げるそうした活気に満ちた音で目を覚ますと、前庭と呼ぶ家
の前の道路を掃除するために家々から年寄りや子供たちが姿を現わし、昨夜の喧騒(け
んそう)の跡を掃(は)き清め、道にきれいな掃き目を残す。その掃き目は、自分の家
の前だけ掃くものじゃないとされていたから、隣の家の前まで伸びて互いに重なり合う。
そしてちょうどその頃昇る太陽に、箒(ほうき)を小脇にして手を合わせてから一日が
始まったという。その姿は、生きる場を自ら築き上げようとする気構えを見せて、何と
も美しい。だが、隣人を常に思いやる心根をそなえたこの人たちこそが、人を人とも思
わない仕打ちに見舞われねばならなかったとは、いったい何と言ったらよいのだろうか。
そしてその生きる糧(かて)であった海を侵し続けた罪はいったい誰が背負い、償って
くれるのだろうか。
このたびの解決案の受諾は、”被害者の命あるうちに”との悲痛な思いを考慮したギ
リギリのところでなされた選択であり、それは生命の尊厳を問う地点からすれば、真の
「解決」に当たらないことは明らかである。まして水俣病として公に認めてさえもらえ
なかった未認定患者の人たちにとって、このたびの事態はいったいどのような意味をも
つのか、あえて問う力さえ萎(な)える。
日本に発生した公害事件は、結局は被害者たちが泣き寝入りを強(し)いられる形で
終息させられてきた。不可逆的なさまざまの身体的不自由や病を引き受けねばならなく
なった以上、それを償う手段が金以外には見当たらないという事情は無視できないとし
ても、そこには割り切れなさや遣(や)り切れなさが残る。
しかしさらに割り切れない思いにさせるのは、そうして幕引きが次々となされてきた
結果、公害はすでに終わったという風潮や世論が広がっていくことである。1972年、
ストックホルムにおいて国連人間環境会議が開かれ、「かけがえのない地球」を合言葉
にした地球環境保全の気運が高まりを見せた。また近い頃ではリオデジャネイロで開か
れた地球サミット(環境と開発に関する国連会議)に代表されるように、地球温暖化な
どの地球規模の環境問題が政治課題としても登場するようになった。私たち一人ひとり
の行動が暮らしの場である地球を侵すおそれがあるという懸念が、多くの人々の胸に抱
かれる時代になっている。そのようなグローバルな視点が前面に押し出されるにつけ、
公害の時代は過ぎ去ったかのように扱われている。だが、はたしてそうだろうか。
これまでの公害事件はその現象が顕著に現われ、目に入りやすかった。またその原因
が比較的単純で原因を作り出した対象を特定しやすく、その補償を求める動きも起こし
やすかった、と言ってよい。しかし目にとまらないだけで、実際はなお多くの公害事件
が起きているのではないだろうか。
たとえば河川の水質汚染はどうだろうか。魚が住まないような川にしてしまった責任
は誰に問えばよいのだろうか。ゴミ焼却場の炉のなかでは多種多量のゴミを燃やすこと
により猛毒のダイオキシンが生成されている場合があるというが、それをつくったのは
誰になるのだろうか。水道水に含まれるトリハロメタンやTOXなどの発ガン性物質、
酸性雨、核廃棄物の問題などには、どう対処したらよいのだろうか。また近ごろ話題の
電磁波については、どうだろうか。考えてみれば、現代の生活様式は目に見えない形で
公害を発生させ、私たちは気づかぬままにその被害を蒙(こうむ)る仕組みになっては
いないだろうか。もしそうだとすれば、私たちはどうしたらよいのだろうか。問題は広
がる。
立教大学の淡路剛久氏(民法学)は、公害法や公害裁判などを通じて問われた「公害」
というとらえ方には、原因と結果、逆に言えば公害発生のメカニズムの分析とそれに対
応した対策というアプローチが必然的に含まれているのであり、オゾン層の破壊や地球
温暖化など地球環境問題に直面した現在において、「公害」概念はなお有効であると主
張している。(『朝日新聞』1992.9.21夕刊)
現在、環境問題は生産者=加害者という単純な図式では割りきれず、消費者もまた加
害者になる場合が少なくないところに特色がある。つまり問題は、現代の生活様式や社
会システムがそのまま公害発生のメカニズムとして機能してしまうところにある。その
意味で、自分たちの暮らしの足元を謙虚に見直すことが何よりも大切な時代にあるよう
に思われる。
ところで、土呂久(とろく)という名をご存じだろうか。土呂久は宮崎県高千穂町の
静かな山里であったが、1971年に地元の青年教師により慢性砒(ヒ)素中毒症の土
呂久鉱毒事件が「発見」されて、一躍世間の注目を浴びた。大正期から操業が続けられ
たずさんな亜砒酸製造がその原因であった。
この地に生きてきた佐藤ツルエさんは、その前年の11月に「岐阜県神岡町の玄米か
らカドミウムに汚染された米が見つかり、農協の保管米850トンの出荷が停止された」
と報ずるラジオ・ニュースを聞いた。そして家のすぐ近くに今も30メートルほどの小
山になっているズリ山を思い、うちの稲にもしもカドミウムが入っていたらと不安にか
られ、稲を手にして「ラジオでえらいカドミカドミと呼(おら)びよるが、うちへんの
米にもカドミが入っとらせんかの」と、町主催の心配ごと相談の会場に飛び込んだ。し
かしそこでは埒(らち)が明かず、法務局が開いていた人権相談の会場へ駆込み、当局
の迅速な対応を得て、6日後には土呂久鉱山跡の調査が行われた。その調査で、もう一
人の佐藤鶴江さんは長年にわたって経験してきた鉱毒の様子を語ったが、彼女もまた日
本が「公害列島」と呼ばれていた1960年代後半に提訴された四大公害裁判(◯注)
の動きを電波を通して知り、自らの境遇を「公害」という耳新しい言葉により位置づけ
る努力をしていたのである。「公害」という言葉を手に入れることにより、わが身を振
り返りつつ、土呂久鉱毒を追及する歴史が幕を開けたのである。(川原一之「甦りの道
しるべ」『記録・土呂久』所収、本多企画、1993年)
このことのもつ意味と重さを、今に生きる私たちの教訓としても、心にとどめておく
必要があるように思う。
◯注四大公害裁判(訴訟) 新潟水俣病訴訟 1967年6月提訴 四日市ゼンソク訴訟 1967年9月提訴 富山イタイイタイ病訴訟 1968年3月提訴 熊本水俣病訴訟 1969年6月提訴