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2015年6月15日

先週の金、土と大腸菌を使った人工遺伝子回路の研究打合せのために奈良先端科学技術大学院大学に行ってきました。土曜日の帰りに少し大阪に立ちより、適塾跡に行ってきました。

適塾は蘭学者緒方洪庵が1838年に開いた塾で、大阪大学はここを出発点としています。慶応義塾創設者の福沢諭吉もここの出身で第10代塾頭を務めました。私がここを訪れてみたかったのは、大村益次郎もこの適塾の第4代塾頭だったからです。大村益次郎のことは、2014年4月19日9月9日のつぶやきで書きましたが、彼は山口明倫館兵学寮の教授を務め、幕府と戦うための長州藩の体制を築き、四境戦争の石州口では、実際に戦地で指揮を取りました。
塾生が勉強した大部屋には、出身県別の塾生のリストが掲示してあり山口県が56名で最多でした。当時の長州藩には松下村塾や明倫館がありましたが、そこだけでなく、他藩まで多くの若者が勉強に出かけていっていたということです。長州藩が明治維新を成し遂げれられたのは、この学問への意識とレベルの高さがあることとは無関係ではないでしょう。

もうひとつ、面白いことを見つけました。大村益次郎の一代前の第3代塾頭は久坂玄機だったそうです。久坂玄機は、いま盛んに「花燃ゆ」に出ている久坂玄瑞の兄です。玄瑞は、村田蔵六(後の大村益次郎)が江戸に開いた鳩居堂(きゅうきょどう)で1858年(安政5年)に学んでいます。萩の松下村塾や明倫館では学んでいない大村が、久坂兄弟と江戸や大坂の塾で関わりをもっているのが面白いですね。

適塾を見た後に、1時間ばかり歩いて大村益次郎殉難報国之碑に行きました。1869年に京都で、大村は同じ長州藩の神代直人らに襲われたあとに、大阪に移され、緒方洪庵の息子緒方維準らの治療を受けますが、亡くなってしまいます。その病院があった地に大きな石碑が建っていました。

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