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2015年4月27日

1866年、幕府は長州藩に攻めいります。その戦いを長州征伐と言いますが、山口ではこれを四境戦争と呼びます。石州口、芸州口、大島口、小倉口の4つの国境で戦いが行われたからです。石州口の益田市については9月29日の、大島口の周防大島町については1月5日のつぶやきで少し書きましたが、先週の土曜日に芸州口の広島県廿日市市大野町に行ってきました。

広島岩国道路を広島方面に行くと、大野インター前に「残念さん」という看板があるのを見たことはありませんか。この看板の奥に「残念社」という神社があります。このあたりは、芸州口の古戦場で、軍使として長州軍営に赴く途中に長州軍に戦闘員と勘違いされて狙撃され、「残念」と言って倒れて亡くなった幕府側の依田伴蔵が祭ってあります。

残念さんのすぐ近くには、吉田松陰が江戸に護送されるときに休憩をとったと言われる腰掛けの岩があります。松陰は萩を去るとき、萩の町が見える境の地の涙松で句を詠みますが、長州とは、遙かに見える周防大島を望みながらここで別れを告げたと言われています。

1859年、吉田松陰は江戸で処刑されます。まさか松陰は、その7年後に、自分が故郷に別れを告げたその場所で、長州と幕府の戦いが繰り広げられるとは思ってもみなかったでしょう。

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