2015年2月23日
先週の土曜日に長門まで出かけて来ました。目的はいつもの幕末歴史スポット探訪です。山口市内から吉敷を抜けて美祢市美東に入り、高杉晋作らの正義派と萩政府軍の俗論派が戦った大田・絵堂の地を通り抜け、村田清風記念館を目指しました。途中で、桜楓山荘跡への誘導看板を見つけたので、先にそちらに立ち寄りました。この旧宅の存在は知っていたのですが、場所が分からないまま出かけたので、ラッキーでした。
桜楓(おうふう)山荘は、楫取素彦とその妻である寿の旧宅です。花燃ゆの主人公の文ではなく、その姉の寿とここで暮らしていました。1870年(明治3年)から約2年間の僅かな期間だったようですが、寿は女性には裁縫を子ども達には読み書きを教えるなどして、地元の人たちに慕われていたそうです。素彦と寿が上京した後のしばらくの間、この家を文が守っていたとのことですので、花燃ゆでもこの桜楓荘が出てくるかもしれません。
ここから車で10分程度走ったところに村田清風記念館があります。長州藩が幕末に活躍できたのは、村田清風のおかげといっても間違いないでしょう。その理由は2つあります。まず第一に、彼は倹約を徹底し、四白(紙・蝋・米・塩)政策を進め、大借金状態だった長州藩の財政を立て直しました。この財政再建が、後に幕末の長州藩の活動を支えることになります。
第二に挙げられるのは、彼は周布政之助の指導者であったということです。周布政之助のことは、9月29日のつぶやきで少し書きましたが、彼は幕府対抗の考えをもつ正義派の家老で、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文らを支援しました。つまり、”村田清風?周布政之助ライン”が長州藩が倒幕へと向かう基本路線をつくったと言ってもいいでしょう。
記念館の第一展示室には、村田清風と周布政之助の業績と生涯が、第二展示室には四白政策と地元三隅の民具が展示してありました。
このあと、萩まで足を伸ばし、藩校明倫館跡に行きました。無料の山陰道を使って約30分で長門市三隅から萩市内まで入ることができました。明倫館を大拡張し、藩の人材育成を充実させたのも村田清風でした。
この明倫館は、1718年に創設され、1867年に廃館になっています。山口明倫館が山口講習堂からの改称によって設立されたのが1863年で、これは藩庁が萩から山口に移されたタイミングでした。つまり、4年間は2つの明倫館が並立したものの、分校であった山口明倫館が本校になり、本校であった萩明倫館は廃止されたということになります。だとすると、「山口大学の前身は明倫館」とも言えそうですが、これは大胆すぎる考えでしょうか?
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桜楓荘跡。191号線から10分ぐらい入った靜かな田園にあります。向こうのV字の左右の山は楫取山です。 | 記念館の横にある村田清風旧宅。長州藩が明治維新を実行できたのも、村田清風の改革があったからこそです。 | 拡張後の明倫館の正門でした。一時、本願寺山口別院にありましたが、平成16年に元のこの場所に移築されました。 |