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2015年1月5日

新年おめでとうございます。今年もこの学部長のつぶやきにお付き合いください。

昨日の日曜日からNHKの大河ドラマの「花燃ゆ」が始まりました。この中で何度も「明倫館」という言葉が聞かれました。明倫館は長州藩の最高学府といってよい藩校で、山口大学の前身です。ドラマの舞台となっている松下村塾は吉田松陰が主宰している私塾で、ここの門下生には、有名な人が多いですが、長州藩で活躍したのはその人たちばかりではありません。

年末から年始にかけての冬休みに、柳井市大畠にある清狂草堂(9月9日のつぶやきを参照)や同市阿月にある克己堂(こっきどう)に行ってきました。この2つの学校の門下生に、赤祢武人という奇兵隊の第3代総督を勤めた人物がいます。初代の総督は言わずと知れた高杉晋作ですが、彼が総督だったのは僅か3ヶ月だけです。それに比べて、赤祢武人は1863年10月から1年以上総督を勤めています。

1864年暮れに高杉晋作は下関の功山寺で挙兵し、翌年の大田絵堂の戦いで萩政府軍に勝利し、藩論を恭順から倒幕へ転換させますが、この挙兵時には奇兵隊は参加していません。このときに総督であった赤祢武人は藩内の内戦を好まなかったためで、これで彼は高杉らと対立します。

私には、当時、内戦をせずに融和的な解決を図ろうとした赤祢武人の方が正しいように思います。しかし、結果は違いました。高杉晋作らが決起し、長州藩の保守派を破ったことで、明治維新が成し遂げられて行きます。もしも、保守派が勝っていたら、歴史のヒーローは高杉でなく、赤祢だったかも知れません。

赤祢は藩内での立場を失い、幕府との関わりを持ったことなどが疑われ逃亡しますが、生誕地である柱島(岩国市)で捉えられ、1866年に山口市の鰐石で処刑され(赤祢武人の碑:9月9日のつぶやきを参照)、その首は罪人同様にさらされたそうです。彼の墓は、生誕地の柱島、克己堂があった阿月、下関の東行庵の3箇所にありますが、主の墓は、彼が赤祢の姓を得た(前は松崎武人)、阿月の墓でしょう。その墓は、道路から細い山道を250mも登った、ひっそりとしたところにありました。

同じ清狂草堂出身の世良修蔵の生誕地の周防大島町椋野にも行ってみました。
四境戦争で、一時幕府に占領された周防大島を奪還するため、高杉晋作が下関から戦艦で駆けつけたことがよく言われます。しかし、一番の立役者は綿密な作戦をたてて、幕府軍を打ち破った世良修蔵です。彼の招魂碑も椋野の細い道を登った山手の地にひっそりと建っていました。

歴史は勝利したものが作ると言われますが、このように、幕府に勝利した長州藩の中でも明暗があります。山口大学の創基200周年記念のキャッチフレーズは『「志」つなぎ伝える二百年』です。光のあたる場所で活躍した志士はもちろんのこと、陰で支えた志士たちの「志」もつなぎ伝えて行く責任と使命が、江戸時代末期から200年の歴史をもつ山口大学にはあると思います。

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