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2014年12月1日

先週の土曜日に親戚の法事があったので、下関に行ってきました。途中、『高杉晋作決起150年記念特別展「晋作決起?長州復権への道?」』が開催されていたので、下関市立東行記念館に立ち寄りました。今からちょうど150年前の1864年、蛤御門の変で敗北し幕府への従順路線を取る萩政府に対抗するため、晋作は、奇兵隊を率いて下関の功山寺で決起します。

東行庵は、高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年に創建されたものです。境内に高杉晋作の辞世の句の石碑を見つけました(写真)。この句の前半部分は高杉晋作が、後半部分は野村望東尼が詠んだものです。野村望東尼は、晋作が博多に潜伏しているときに彼をかくまっていました。そのことを責められて玄界灘の姫島に流されますが、晋作たちに救い出され、晋作を下関で看病したのちに、防府で亡くなります。望東尼が防府にいたときに、楫取素彦・美和子(4月28日のつぶやき参照)が親身に世話をしたと言われています。野村望東尼の墓は楫取夫妻の近くに建てられています。

高杉晋作の墓の横に福田侠平の墓がありました。福田侠平は、山口市後河原の出身で、山県有朋とともに奇兵隊の軍監を務めた人物です。後河原は山口講堂があったところで、しかも彼は1829年の生まれですから、タイミング的に山口講堂か山口講習堂で学んだのでは、と思い、少し調べてみましたが、そのような事実は見つかりませんでした。彼の遺髪を納めた墓は山口市大内にあり、位牌がその近くの興隆寺の中に置いてあります。興隆寺は西国一の大名であった大内氏の氏寺でしたので、大内文化と幕末の両方の歴史物が両方あるスポットはとても珍しいのではないでしょうか。

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