2014年9月29日
9月24日に秋の卒業式と入学式がありました。学部長として卒業式に出るのはこれが始めてです。理学部からは、情報の藤本一聖君が卒業しました。彼は隣の西井研究室の学生なので、西井先生と一緒に記念撮影をしました。彼が持っている証書が、私の名前が書いてある卒業証書の第1号です。私は習字がまるでだめなので、代わりにうちの奥さんに書かせようかと本気で思いましたが、さすがに思いとどまって、頑張って自分で書きました。多少のテクニックは使いました が、正真正銘、私の作品です。
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藤本一聖君の卒業式後に、指導の西井先生と記念撮影。 |
さて、また少し幕末の話にお付き合いください。1864年の9月25日、長州ファイブの一人であり、山口講習堂の出身の井上馨が、湯田温泉近くの袖 解橋近くで藩内で対抗していた俗論派の者たちに切られ、瀕死の重傷を負いました。これからちょうど150年後の今週の9月25日木曜日に、この事件を描い た旭道南左衛門さんの講談が山口市菜香亭でありました。講談を聞くのは始めてでしたが、絵も写真も使わないのに、話だけで情景が頭に浮かんできました。明治時代には、庶民は講談で様々な出来事や歴史を学んだということですが、とても納得しました。私も人前で喋ることを仕事にしていますが、とてもここまでの レベルには到達できないと思いました。
この翌日にもう一つ大きな事件がありました。1864年9月26日は、井上馨と同じ正義派で、長州藩の家老であった周布政之助が切腹し、亡くなった日です。この場所の近くに墓があり、そばの周布公園に碑も建てられています。井上馨や高杉晋作、伊藤博文が存分に 活動できたのも、彼らの行動に理解のあった家老として周布政之助がいたからです。
周布政之助の「周布」は島根県浜田市にある地名です。毛利は中国一円を治めていましたので、家臣には中国地方の地名の者が多いそうです。今週の火曜日の秋分の日に親戚のお見舞いに浜田に行ったのですが、途中に 周布駅があったので、写真を撮りました。帰りには、大村益次郎が指揮をとった、四境戦争(第二次長州征伐)の石州口の戦いがあった益田市に寄りました。萬福寺本堂の柱に残されている、長州軍が打ち込んだ弾丸の痕を見ました。
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講談の合間の時間に、袖解橋の 事件の解説の寸劇がありました。 |
浜田市にある周布駅(山陰本線)。毛利の家臣の名は中国地方の地名が多いです。 | 萬福寺の柱にある長州軍が打ち込んだ弾丸痕。この寺には雪舟庭もあります。 |