2014年9月9日
9月になりました。先月8月は雨の日が多く、今月からは朝夕は涼しくなってきて、ちょっと物足りない夏でしたね。今回はまた幕末歴史物の話にお付き合いください。
長州藩には私塾を含めて多くの”学校”があり、最も有名なのは萩の松下村塾ですが、その松下村塾と双璧をなす私塾といってよい「清狂草堂」の話から始めます。
清狂草堂は、僧月性によってひらかれた私塾で、今の柳井市大畠にありました。幕末に活躍した志士たちには松下村塾出身の人たちが目立ちますが、この清狂草堂からも重要な人物が多く輩出されました。高杉晋作の後に奇兵隊総督となったものの幕府のスパイと怪しまれて処刑された赤根武人、仙台で斬殺され戊辰戦争のきっかけとなった世良修蔵などです。
その清狂草堂で学んだ一人に、大楽源太郎がいます。大楽は、萩の出身ですが、幼いときに今の防府市台道に移り住みました。彼は、高杉晋作や久坂玄瑞とともに尊皇攘夷活動を行ない、今からちょうど150年前の1864年の蛤御門の変にも出陣しています。
大楽は1866年に台道に「西山塾(せいざんじゅく)」を開きました。後に内閣総理大臣になる寺内正毅もこの西山塾に学んでいます。ちなみに寺内は、山口大学のある平川地区で生まれ、私の住んでいる宮野地区の寺内家に養子として入っており、彼が開設した寺内文庫の蔵書は多く山口県立大学図書館に所蔵されており、建物も残っています。
防府市台道の西隣の地区が山口市鋳銭司です。長州藩が幕府を破った四境戦争や、戊辰戦争で指揮をとった大村益次郎はこの鋳銭司の出身です。大楽と大村の間には不思議な関係があります。まず、この2人はともに若い頃、今の大分県日田市の儒学者、広瀬淡窓のところで学んでいます。
大村は、武家社会から、庶民も参加する新しい軍体制への転換を進めましたが、これをよく思わない者に、京都で切られ重傷を負い、後に亡くなりました。その大村を切ったのが神代直人で、彼は大楽の西山塾の出身です。大村もまさか、隣村の台道の者に襲われて、命を落とすことになるとは思わなかったでしょう。
さらにこのような話もあります。大村益次郎の遺体は大阪から故郷の鋳銭司へと運ばれますが、そのときに遺体に寄り添っていた者の一人が、寺内正毅です。寺内も西山塾の出身ですから、大村は西山塾の出身者に切られ、さらに、彼が故郷に戻るときも西山塾の出身者に付き添われていることになります。当時の幕末の長州藩士の間にあった、複雑な人間関係が見え隠れしている気がします。
大楽源太郎は、自分の弟子が長州藩の要人であった大村益次郎を切ったことを責められ、大分県の姫島に潜伏するなどして逃走しますが、最終的に新政府によって斬殺されてしまいます。この大楽源太郎、それに先に述べた世良修蔵、赤根武人など、清狂草堂の出身者は、華々しい活躍をした松下村塾の出身者に比べ、不遇な結末を迎えている人が多いですね。
山口大学の創基200周年記念のキャッチフレーズは『「志」つなぎ伝える二百年』です。光のあたる場所で活躍した志士はもちろんのこと、陰で支えた志士たちの「志」もつなぎ伝えて行く責任と使命が、江戸時代末期から200年の歴史をもつ山口大学にはあると思います。
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西山塾の碑: 1866年から約3年間、防府市台道の山際の地にありました。同じ台道の繁枝神社には「大楽先生の碑」があります。 | 赤根武人の碑: 山口市の椹野川沿いにあります。この地で赤根は処刑されました。山県有朋は奇兵隊の軍監でしたから、総督の赤根は山県の上司だったということになります。 | 寺内文庫: 山口市宮野にある寺内文庫の建物。昔は山口県立大学の図書館でした。取り壊しの声があるようですが、このような重要な歴史物は是非残して欲しいと思います。 |