2014年4月19日
昨年度から共通教育で「山口と世界」の授業が始まりました。山口市はその歴史の中で2回ほど目立った時期があって、一つは約500年前の大内文化の頃、もう一つは150年前の幕末から明治維新にかけての頃で、どちらも世界とのつながりがあったことがその繁栄と成功の大きな要因でした。この授業を担当することになったので、最近、幕末の歴史の勉強を始め、なかば趣味のようになっています。
4月19日の土曜日に、大学のある平川地区の幕末スポットである、「隊中様」に行ってきました。西京高校の裏あたりから山口市南部の鋳銭司に抜ける山道の途中に隊中様があります。結構険しい山道ですが、これは幕末に活躍した大村益次郎が鋳銭司から通った道でもあります。
幕末に活躍した長州藩の隊として奇兵隊が有名ですが、長州藩には他にも同じ様な隊が沢山ありました。戊辰戦争が終わるとこれらの諸隊の役目も終わり、一部の隊員は長州藩の正規軍に入りますが、他の多くの隊員は任を解かれ、仕事を失ってしまいました。これらの人たちが反乱を起こしますが、木戸孝允らに鎮圧されてしまいます。
その鎮圧されて命を落とした者の中に、軍医の藤山佐熊(すけくま)という人がいました。彼は、いま隊中様の碑がある山奥に居たときに、近くの村人の病気を診てあげたりして尊敬されていたそうで、今でも毎年4月に近くの住民の人が供養祭をしています。
さて、山口大学の起源である山口講堂は1815年に開設されました。1863年に20歳台で渡英した長州ファイブの例にあるように、幕末から明治維新にかけて長州藩の若者が活躍しましたが、この開設時期のタイミングから、この中には山口講堂で学んだ者が多くいたことが伺い知れます。藤山佐熊のように、決して目立たないけれども、大切な役割をした人も沢山いることでしょう。
そう考えると、来年迎える山口大学の創基200周年も、あながち大げさなものでも無いように思えてきました。1年後には盛大にお祝いできるように、これからムードをもっと盛り上げていかなくては、と感じています。
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隊中様の碑。NHKの 「そのとき歴史が動いた」で 紹介されたこともあります。 |
大村益次郎もこの道を通って、 鋳銭司から山口に通いました。 |
平川から登る山道には、 途中にイノシシ狩りの罠もあります。 |