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2020年6月22日

 先日、自家用車を運転中に、オドメーターが59,997 kmを表示したのに気が付きました。少々子どもじみているのですが「走行60,000 km(=地球一周半)記念」で車を道路わきに止め、画像を撮影しました。(おそらく、皆さんの中にも経験のある方がおられると思います。)そこから頭の中は一気に「知りたいモード」になり、いろいろと考えて始めました。まずは、このオドメーターの計測精度はどの程度なのだろうということから。精度を考えるにはどのような方法で走行距離を計測しているかを知らないといけません。その方法は関係者の方には常識的なことでしょうが、素人なりに考えると「タイヤの回転数から導出する。」がすぐに思いつく答えです。(今は便利でネット検索すればいろいろなことがわかります。実際にはシャフトの回転数から導出するなどいくつかの方法があるようです。)そこからさらに、タイヤのすり減りやカーブを曲がるときの左右でのタイヤの回転数の違いの影響はどの程度だろうかと知りたい虫が騒ぎ始めます。計測には少なからず誤差があります。結局、オドメーターの目的からしてその誤差は問題にならない程度なのだろうで思考は終わりにしました。
 ここで、「問題にならない程度」の判断についてですが、自分では検証をしておりません。さらに、「オドメーターの目的からして」についても、車の劣化の程度の指標になる程度しか思いつきません。ほんとうに無責任ないいかげんな思考です。
 これが自分の研究や業務に関することであれば、そうはいきません。厳密性に欠ける議論ではだれも受け入れてくれません。ここで問題となるのが「厳密性に欠ける」の厳密性の範囲・程度です。これは前提条件や、何に重きをおくか、何を対象・目的とした議論かによるかで決まりますね。例えば数学の分野での厳密性と自然科学の分野での厳密性はその意味、範囲とも大きく異なるでしょう。同じ自然科学の分野でも、物理学と生物学での「厳密性」には差があると思います。大切なのは、それぞれの分野、それぞれの場面で、何に重きをおくか、何を目的とした議論なのかを、きちんと理解して考えることですね。判断力が必要です。他人と議論する際にはそれをきちんと共有しないと議論がすれ違ったり、お互いの考え方を受け入れなくなったりします。
 新型コロナウイルス関連での議論ではそのようなすれ違いを感じることが多くあります。日本のPCR検査数に対する議論は典型的かと思います。(この話はネット上にわかりやすい解説がたくさんありますのでそれに譲ります。)
 一方で、人間社会、敢えて厳密性を追求せず、厳密性に欠ける方がよい場合もたくさんあります。昔、「君のひとみは一万ボルト」という堀内孝雄さんの曲が大ヒットしました。厳密性を追求すると「ひとみは一万ボルト? ひとみの単位がボルト?ひとみは起電力、電圧、電位???そもそもひとみは量ではないのだから単位なんてないでしょう。」そろそろやめましょうか。「君のひとみは一万ボルト」、言わんとしていることは十分に通じます。芸術的、文化的な表現等、人間の感性に関わるようなところに科学的な厳密性を持ち出すこと自体無意味ですね。「君のひとみは一万ボルト」、すばらしい表現ですね。自分では決して思いつきません。この唄、私はとても好きです。
 オドメーターの話から、厳密性の話に強引につなげてみました。たまには、このような無意味なつぶやきもしてみます。

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