京都・山科の勧修寺の氷室の池のハナショウブは見事だと聞きますが, 山口大学構内のハナショウブもきれいに咲いています. 拝観料を取ってもいいぐらいです. 知らなかったのですが, ショウブはサトイモ科に属し, ハナショウブ, アヤメはアヤメ科に属するそうです. アヤメ科には, 他にカキツバタも属するそうです.
ショウブとカキツバタはそれぞれ属する科は異なりますがどちらも水辺に生え, ハナショウブとアヤメは同じ科に属しますが, ハナショウブは湿地に, アヤメは普通のところに生えるそうです. 一体どれかどれだか区別が難しいです.「伊勢物語」の「あやめ刈り君は沼にぞまどひける」は, 沼でアヤメを取っているので, このアヤメは現在のアヤメではなくショウブかハナショウブかカキツバタかということになります (他にもよく似た花はあるかも知れませんが). 「その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり」と「伊勢物語」の別のところに書かれていますので, 物語の著者はアヤメ, カキツバタの区別しているように思われ, このアヤメはショウブかハナショウブかということになります. ハナショウブについては, 室町中期の生け花の本「仙伝抄」に出てくるのが最初のようなので(「花おりおり」p.56), 恐らく「伊勢物語」のアヤメは今でいうショウブだと思われます. そもそも, ショウブとハナショウブの区別がついていなかったのかも知れませんが, 広辞苑にも「あやめ刈り」のアヤメはショウブの古称だと書かれています. アヤメもショウブも漢字で書くとどちらも「菖蒲」ですから, とてもわかりにくいです.
ハナショウブと同じく, アヤメもきれいな花ですが, 私には少しアヤメの印象がよくありません. 幼い頃に, 二人の祖母から「アヤメになる」という言葉を聞いていたからです. 特に, よく聞いたのは「柿の木から落ちるとアヤメになる」です. 「アヤメ」とは, 石川県の言葉で「バカ」という意味です. 松本修 著「全国アホ・バカ分布考」(新潮文庫)を繙きました. それは富山, 石川の一部で使われる言葉であり, 「肖り者(あやかりもの)」に由来するようです. 「肖り者」は戦国時代の辞書「運歩色葉集」(うんぽいろはしゅう, 1548年)に見られる言葉のようで, 人が肖りたいと思うほどの果報者という意味です. それが, いつの頃か, 己の状況に気が付いていない人に向かって「あなたは果報者ですね」と皮肉として使われるようになったのではないかと考えられています (p.194-p.196). 福井県になると, アヤメではなく「アヤ」, 「アヤカリ」と言うそうです. また, 三重, 和歌山, 長崎の一部では, アヤメのことを「アイカリ」, 「アヤカリ」, 「アリカリ」と言うそうです (同書, p.132, p.133, 第4章参照).
この本の著者の松本は, テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送)の制作に携わった方です. 日本各地で, 「アホ」や「バカ」に相当する言葉はどのようなものなのか, 「探偵!ナイトスクープ」の1つの企画として, 取り上げられました. テレビ番組ではもともと, 「アホ」と言う地域と「バカ」と言う地域の境目を探していましたが, 東京の「バカ」から調査が始まり, 西に向かい, 名古屋で「タワケ」が登場, 岐阜でも「タワケ」で, 滋賀で「アホ」, 調査は岐阜と滋賀の境目あたりの関ケ原が, 「タワケ」と「アホ」の境目であるという結論に辿り着きます. 番組の出演者のひとりである上岡龍太郎が, こんなことは「学者も調べていない」と松本に言ったそうです. その後, アホバカ調査は大勢の人がかかわる大規模なものになり, まとめられた調査結果が, 松本の著書「全国アホ・バカ分布考」です. これは600ページ近くもあります. 広辞苑を見れば, バカ(馬鹿, 莫迦) はサンスクリットの moha (慕何) の意(無知のこと)からか, と書かれています. この説は, 広辞苑の編者・新村出が支持したもので, 江戸時代の天野信景(あまのさだかげ)の随筆集「塩尻」, 新井白石の語学書「東雅」にあると「アホ・バカ分布考」で紹介されています. また, 新村自身, この説を否定したかったようであるとも述べられています(同書, 第5章). 松本は, バカは「狼藉」の意ではないかと語源を探し求め, 検証し, ついには, 中国の白楽天 (772-848)の「新楽府」という詩集にある「馬家」に辿り着いています (同書, 第7章).
君不見馬家宅尚猶存 宅門題作奉誠園
君見ずや馬家の宅は尚お猶お存じ
宅門題して奉誠園と作すを
(松本「全国アホ・バカ分布考」p.376-p.381 参照)
これを見つけた経緯を松本はさりげなく幸運を装って述べていますが, 松本の努力の賜物だと私は思います.
その語源検証において, 松本は「馬鹿」と「馬家」ではあまりにも安直だと, バカの語源が「馬家」である根拠を求めています. そして, 紫式部の「源氏物語」に, その白楽天の詩の影響を受けている部分も見出しています(松本, p.388-p.394). この本には松本清張「砂の器」も一瞬出てきます. 小説中の彼の人物は「アヤメ」を知っているかも知れません.
松本「アホ・バカ分布考」に従うと, バカの語源はサンスクリットの moha ではないだろうということになりますが, 私には1つ疑問があります. インド東部で話されているベンガル語に「boka」という言葉があります. これは, 「馬鹿な」という意味であると, 大学書林の「ベンガル語 基礎1500」のp.91 に書かれています. 私はベンガル語の辞書を持っていないので, 持っている方に辞書で「boka」を引いてもらいました. 仮に, 私がベンガル語の辞書を持っていたとしても辞書を引くことは出来ません. ベンガルの文字は難しい. わざわざ辞書を引いて下さった方から「boka」には, stupid, foolish, silly, witless (これは moha に近い?), fool, idiot, …とベンガル英辞書に書かれている, と教えて頂き, さらに, そのコピーまで頂きました. そこで, 私はインドで話されているヒンディー語にも 「boka」 に音が近い言葉があるのではないかと思い, ヒンディー・英辞書を調べてみました. 「bak」という言葉が辞書にあります. その説明の最初に, chatter とあり, 続いて, nonsense と書かれています. 他に, 「bhakuaa」という言葉もあります. 一つ目には, stupid, 二つ目には, confused, 最後の三つ目は名詞で, a fool と説明されています. 見つけた!! と私は思いました.「アホ・バカ分布考」では, バカの語源サンスクリット「moha」説に言及していますが, 現在のインドの言葉については触れられていません. もしかすると, バカの語源サンスクリット説はまだ完全に否定しきれていないのではないかと思います. 「探偵!ナイトスクープ」に対抗して(?), 手元のインド関係の本を探しました. そして, 岩波文庫の「浄土三部経 (上)」(p.246)に, サンスクリットの 「bhagavat」 という言葉を見つけました. この本では「bhagavat」が「師」と訳されていますが, 「幸運な人」という意味であると説明されています. さらに, 別の本が出てきました. 辻直四郎著「インド文明の曙」(p.54)に, バガ(「分配・幸運の神」)とあります. また, 辻直四郎訳「リグ・ヴェーダ讃歌」(p.139)に, バガ(幸運の神)と書かれています. ヴェーダはインド最古の文献なので, 明らかに大乗経典の浄土三部経よりも古いです. 「バガ」に音が近い, 似ている言葉には「幸運」の意がありそうです. インド学者たちの言うことを疑うわけではありませんが, 「bhagavat」に「幸運な人」という意味があるかどうか, 自分でもちゃんと確認したいと思い, 山口大学総合図書館で, A Sanskrit-English Dictionary を引きました. その巨大な辞書 p.743 に 「bhagavat」を見つけました. そこには, possessing fortune, fortunate, prosperous, happy と書かれています. 「Bhaga」もありました. `dispenser’ gracious lord と説明されています. 確かに, これらに幸運の意味はあります.
日本の「アヤメ」が「肖り者」(果報者)から, 「まぁ, なんて幸せな人!! (アキレタ)」と皮肉表現として生まれて来た言葉なのであれば, インドでも, bhagavat や Bhaga からbokaやbhakuaaという言葉が「アヤメ」と同じように生まれて来たのではないかと, 私は考えてしまいます. すると, 日本語の「バカ」の由来も, moha (無知) ではなく, bhagavat や Bhaga なのではないか, と思ってしまいます. また, moha も辞書で引いてみましたが, 説明には, loss of consciousness, bewilderment, perplexity (上の梵英辞書, p.836) とあり, 「無知」とは少し違うような印象を受けます. 「当惑」の意もあるようです. サンスクリットを漢字に訳した人たちは苦労されたと思います.
松本は労作「アホ・バカ分布考」をご自身の祖母に献じたいと本のあとがきの中で書いておられます. 私にとっても「アヤメ」は二人の祖母から覚えた言葉なので, 著者の言い尽くせない心情を感じます. 果して, bhagavat や Bhaga という言葉も白楽天の「馬家」ように日本に伝わっていたのでしょうか.
バカなことを長々と書きましたが, 数学の勉強についても, 教科書に書かれていない, 論文に書かれていない素朴な問題を見つけて, それを根気よく考えると, それには相当の時間もかかりますが, 面白い卒業論文, 修士論文に発展するかも知れません. ベンガル語の「boka」については, 何年か前にインドの方と論文を書いたときに, 直接聞いた言葉なのでよく覚えていました. 当時, 私はインドの叙事詩の一部分「バガヴァッド・ギーター」のことを知っていましたが, このタイトルを単に「神の歌」, 「クリシュナの歌」, ぐらいにしか思っておらず, bhagavat の幸運という意には全く気が付いていませんでした. (南出)
![]() |
![]() |
謝辞: ベンガル語の「boka」について, 山口大学・学生特別支援室の岡田先生にベンガル英辞書を引いて頂きました. 岡田先生は, このバカげた本稿の草稿を真面目に読んで下さり, わざわざ辞書で確認して下さいました. ここに感謝の念を表します.
参考文献
- 栗田 勇 「花を旅する」岩波新書 722, 岩波書店, 2001. (p.42-p.61)
- 大津有一 校注 「伊勢物語」岩波文庫 240, 岩波書店, 昭和39年. (特に, p.14, p.38)
- 湯浅浩史, 矢野勇 「花おりおり」, 朝日新聞社 (出版年不明). (p.23, p.45, p.56,)
- 松本 修 「全国アホ・バカ分布考」新潮文庫, 新潮社, 平成8年. (特に, 第4, 5, 7章)
- 広辞苑, 第6版, 岩波書店, 2008年.
- 奈良 毅 編 「ベンガル語 基礎1500」, 大学書林, 昭和61年. (p. 91)
- Bangla Academy Bangla-English Dictionary, 1994. (p.586)
- Oxford Hindi-English Dictionary, Oxford University Press, 1993. (p.694, p.755, p.756)
- 中村 元, 早島鏡正, 紀野一義 訳註 「浄土三部経 (上)」 岩波文庫 青 306-1, 岩波書店, 1963. (p.246, p.18)
- 辻 直四郎 「インド文明の曙」岩波新書 D12, 岩波書店, 1967. (p.55)
- 辻 直四郎 訳 「リグ・ヴェーダ讃歌」岩波文庫 赤 60-1, 岩波書店, 1970. (p.139)
- Monier-Williams, A Sanskrit-English Dictionary, Oxford University Press 1956. (p.743, p.836)

