犬の膀胱がんにおける「乳酸代謝と免疫応答制御」の新たな仕組みを解明―腫瘍代謝を標的とした新しい治療戦略への可能性―
発表のポイント
- 犬の浸潤性尿路上皮がん(iUC)において、腫瘍細胞が放出する乳酸が免疫抑制性に働く仕組み(制御性T細胞(Treg)の増加、IFN-γ産生の抑制)を初めて明らかにしました。
- 腫瘍細胞の乳酸排出を担うトランスポーターMCT4の発現が高いほど、Tregが多く浸潤していることを確認しました。
- 犬iUCでは、HER2シグナル経路の活性化によりグルコース代謝が亢進し、乳酸排出が促進されることを発見しました。
- 抗炎症薬ジクロフェナクがMCT4阻害作用を示し、腫瘍細胞外への乳酸排出を抑制することを発見しました。
- 犬とヒトの膀胱がんは分子レベルで非常に類似しており、この成果は獣医療だけでなく医療への応用も期待されます。
概要
山口大学大学院共同獣医学研究科の伊賀瀬雅也助教、加藤大樹大学院生、水野拓也教授らの研究グループは、犬の浸潤性尿路上皮がん(iUC)において、腫瘍細胞から排出される「乳酸」が抗腫瘍免疫を抑制する分子メカニズムを解明しました。
本研究には、ボストン大学の茂木朋貴博士研究員(現・東京農工大学助教)、山口大学共同獣医学部の岡内菜央学部生、櫻井優准教授、東京大学の中川貴之教授、内田和幸教授、前田真吾准教授、加藤大貴講師らが共同で参画しました。
犬iUCは犬の膀胱腫瘍で最も発生頻度が高く、転移能が高いため全身療法が必要とされます。さらに一部症例ではHER2遺伝子異常が報告されています。また犬iUC組織は特殊な腫瘍微小環境を呈し、犬の他の腫瘍と比べて制御性T細胞(Treg)の浸潤が多いことが知られていますが、その詳細なメカニズムは未解明でした。
そこで研究チームは、犬iUC組織および公共データベースを用いた網羅的遺伝子発現解析と免疫組織化学を実施し、乳酸排出を担う膜トランスポーターMCT4の発現が、HER2遺伝子発現および腫瘍組織中のTreg浸潤数と正の相関を示すことを明らかにしました(図1)。
図1 : 網羅的遺伝子発現解析において、MCT4遺伝子とHER2遺伝子発現に正の相関が認められた。
また、腫瘍組織において、MCT4タンパク発現と制御性T細胞(Treg)の浸潤数に正の相関が認められた。
さらに、犬iUC細胞株でHER2経路を活性化させると解糖系が亢進し、乳酸排出が促進されることを確認しました。くわえて、健常犬から分離したT細胞に乳酸を添加するとTreg分化が増加し、活性化T細胞のIFN-γ産生が抑制されることも分かりました(図2)。これらの結果は、犬iUCにおいて「HER2遺伝子―乳酸―Treg」の連関が存在することを示唆しています。
図2 : 乳酸は制御性T細胞(Treg)を増加させ、活性化したT細胞のIFN-γ産生を抑制する。
さらに、非ステロイド性抗炎症薬(NSAID)であるジクロフェナクがMCT4阻害作用を示し、犬iUC細胞において細胞外乳酸濃度を低下させることも明らかにしました。
以上の成果は、腫瘍代謝を標的とする新たな治療戦略―すなわち「代謝阻害による抗腫瘍免疫の増強」―の可能性を示すものです。犬のiUCはヒトの筋層浸潤型膀胱がんと病理学的・分子学的に非常に類似しており、今回の知見はヒト膀胱がん治療の開発にも大きく寄与すると期待されます。
本研究のまとめ
本研究は、犬の膀胱がんにおける乳酸代謝が免疫を抑制する仕組みを明らかにし、MCT4阻害による代謝標的療法の可能性を示しました(図3)。
図3 : 本研究のまとめ。犬の膀胱がんでは、HER2経路の活性化により、解糖系が亢進し、
乳酸排出が増加している。その乳酸は制御性T細胞(Treg)の浸潤や分化誘導に作用するだけでなく、
活性化したT細胞のIFN-γ産生を抑制することで、抗腫瘍免疫を負に制御していることが示唆された。
また、ジクロフェナクはMCT4を阻害し、乳酸排出を抑制することが明らかとなった。
論文情報
- 論文名:Lactic acid regulates antitumor immunity in canine invasive urothelial carcinoma
- 掲載誌:PLOS ONE
- 発表日:2025年9月18日(オンライン掲載)
- 著 者:加藤大樹、岡内菜央、茂木朋貴、櫻井優、前田真吾、加藤大貴、中川貴之、内田和幸、水野拓也、伊賀瀬雅也
- DOI:https://doi.org/10.1371/journal.pone.0332825
研究助成
本研究は日本学術振興会科学研究費補助金(20K15680, 22K14991)の支援を受けて実施されました。
用語の補足
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解糖系
細胞が糖(グルコース)を分解してエネルギー(ATP)を得る代謝経路。がん細胞は酸素が十分あっても解糖系を活発化させる「ワールブルグ効果」を示すことが多く、乳酸が大量に産生されます。 -
HER2遺伝子異常
ヒト上皮成長因子受容体2(Human Epidermal Growth Factor Receptor 2)をコードする遺伝子に増幅や過剰発現などが起こった状態。細胞増殖を促進し、乳がんなど多くの腫瘍で腫瘍進展や悪性化に関与します。犬の浸潤性尿路上皮がんでも同様の異常が一部で報告されています。 -
抗腫瘍免疫
体の免疫システムが自らの腫瘍細胞を認識し、排除しようと働く仕組み。主にIFN-γ産生T細胞ががん細胞を攻撃する。がん免疫療法(免疫チェックポイント阻害薬など)の基盤となっています。 -
制御性T細胞
免疫反応を抑制する役割をもつT細胞の一種。通常は自己免疫反応を防ぐ重要な働きを担いますが、腫瘍内で増えると抗腫瘍免疫を弱め、がん細胞が免疫から逃れる原因となります。
問い合わせ先
- <研究に関すること>
山口大学大学院共同獣医学研究科
助教 伊賀瀬 雅也
Eメール:m.igase@(アドレス@以下→yamaguchi-u.ac.jp) - <報道に関すること>
山口大学総務企画部総務課広報室
電話番号:083-933-5007
Eメール:sh011@(アドレス@以下→yamaguchi-u.ac.jp)